2010.11/06 [Sat]
本門法華経の梗概(こうがい:概要) 第17
「世尊! 妙音菩薩の善根についてはよく解りましたが、菩薩衆の体得されました悟りをばなんと申すのでありましょうか?」
「その悟りの名は『現一切色心三昧(げんいっさいしきじんざんまい)』といい、菩薩はこの三昧の中に在って、かく無量の衆生を利益しているのだ。」
かくして、妙音菩薩は釈尊並びに多宝如来の宝塔を供養して本土に還り、浄華宿王智仏に娑婆世界において釈尊ならびに多宝仏塔を礼拝し、文殊師利・薬王・得勤(とくごん)・精進・勇勢菩薩等と相会して、多くの人々を利益したさまを詳しく報告申しあげるのであった。
無尽意菩薩(むじんにぼさつ)が起って釈尊に合掌し、「世尊! 観世音菩薩はどういう因由(いわれ)から観世音と申すのでありましょうか?」
「無尽意! 菩薩の名である観世音の『観』は観察という意味であり、『世』とは世間の人々のこと、『音』とは菩薩に南無と帰命(きみょう)する人々の音(:声)のことで、菩薩に南無する世の人の『口業(くごう)』-----口のはたらきの音を観察して、願いをかなえてくれるから観世音というのだ。
だが、これは衆生の口業についていうので、衆生が菩薩を念ずる『意業(いごう)』----心のはたらきの上から言うなら『観世意』といってよく。礼拝する『身業(しんごう)』----身のはたらきからいうなら『観世身』といってよい訳だ。そして、『普門(ふもん)』とは菩薩が人々を普(あま)ねき門を通して救済するところから名づけられたのである。
先ず、第一に口業の植えに、衆生がいろいろの苦難を受けてこの菩薩のことを聞き、南無観世音菩薩と称名するなら、菩薩は直ちにその音声を聞いて救ってくれる。設(たと)い大火の中に入っても焼かれることはない。----大火難。
大水に流されても、称名するなら浅い所を見出す。----大水難。
七宝等の宝を持って大界を渡り、大風が吹いて船をくつがえし、羅刹鬼の国に堕ちんが如き時も、船中の誰か一人が菩薩の名をとなえるなら、その難をおがれる。----羅刹難。
罪にとらわれて将に斬られんとする場合も、称名すれば刀杖が段々に折れて助かる。----刀杖難。
全世界に充てるほどの多くの悪鬼が悩まさんとしても、称名すればどんな悪鬼も悪眼を以て正視することすらできまい。----大鬼難。
罪無うして手枷(てかせ)・足枷・首枷で身を縛られても、称名すれば枷が悉く断たれて救われる。----枷鎖難(かさなん)。多くの商人が重宝を持って険路を通り、3千大千国土に満つるほどの盗賊が襲い来ても、称名すれば即時に脱がれることができる。----怨賊難。
無尽意!菩薩の威力の巍々(ぎぎ:大きい)たることことはこうした風である。
第二に意業の上に、淫欲など欲に自ら悩まされているものも、菩薩の名を念ずればよくを離れることができる。----貧欲。
自ら憤り易うして悩むものも、不断に菩薩の名を念じているなら、憤うろしい心が消える。----瞋恚(しんい)。
ろかくに愚痴っぽくって自ら悩んでいるものも、常に菩薩を念じているなら、諦観ていかん:あきらめ)の心が得られてくる。----愚痴。
無尽意! 観世音菩薩ノンはかかる堂々たる威力があって、衆生を救ってくれるのだ。
第三に身業の上に、若し男児を儲けたく思う者が、この菩薩を礼拝供養して祈るなら、福徳円満な男児が生れる。----求男児。
女児を求めるなら、端正な美しい女児が生れて、衆人に愛敬(あいぎょう)されるであろう。----求女児。
無尽意! 観世音菩薩はかような威力有っているのだ。」と釈尊は観世音菩薩の名の因由と、七難・三毒・二求の願望を叶えてくれる徳を説き、限りない他の多くの菩薩に帰依(きえ)し、それを供養する功徳にも劣らぬ観音信仰の功徳を語り、更に無尽意菩薩の問いに答えて、菩薩が三十三身に身を変化し、衆生済度のために、種々に法を説くことを明された。畏怖に満ちた人の世に『無畏』を与えるこの菩薩を、娑婆世界では『施無畏者』とよぶことも告げられたのである。
「その悟りの名は『現一切色心三昧(げんいっさいしきじんざんまい)』といい、菩薩はこの三昧の中に在って、かく無量の衆生を利益しているのだ。」
かくして、妙音菩薩は釈尊並びに多宝如来の宝塔を供養して本土に還り、浄華宿王智仏に娑婆世界において釈尊ならびに多宝仏塔を礼拝し、文殊師利・薬王・得勤(とくごん)・精進・勇勢菩薩等と相会して、多くの人々を利益したさまを詳しく報告申しあげるのであった。
無尽意菩薩(むじんにぼさつ)が起って釈尊に合掌し、「世尊! 観世音菩薩はどういう因由(いわれ)から観世音と申すのでありましょうか?」
「無尽意! 菩薩の名である観世音の『観』は観察という意味であり、『世』とは世間の人々のこと、『音』とは菩薩に南無と帰命(きみょう)する人々の音(:声)のことで、菩薩に南無する世の人の『口業(くごう)』-----口のはたらきの音を観察して、願いをかなえてくれるから観世音というのだ。
だが、これは衆生の口業についていうので、衆生が菩薩を念ずる『意業(いごう)』----心のはたらきの上から言うなら『観世意』といってよく。礼拝する『身業(しんごう)』----身のはたらきからいうなら『観世身』といってよい訳だ。そして、『普門(ふもん)』とは菩薩が人々を普(あま)ねき門を通して救済するところから名づけられたのである。
先ず、第一に口業の植えに、衆生がいろいろの苦難を受けてこの菩薩のことを聞き、南無観世音菩薩と称名するなら、菩薩は直ちにその音声を聞いて救ってくれる。設(たと)い大火の中に入っても焼かれることはない。----大火難。
大水に流されても、称名するなら浅い所を見出す。----大水難。
七宝等の宝を持って大界を渡り、大風が吹いて船をくつがえし、羅刹鬼の国に堕ちんが如き時も、船中の誰か一人が菩薩の名をとなえるなら、その難をおがれる。----羅刹難。
罪にとらわれて将に斬られんとする場合も、称名すれば刀杖が段々に折れて助かる。----刀杖難。
全世界に充てるほどの多くの悪鬼が悩まさんとしても、称名すればどんな悪鬼も悪眼を以て正視することすらできまい。----大鬼難。
罪無うして手枷(てかせ)・足枷・首枷で身を縛られても、称名すれば枷が悉く断たれて救われる。----枷鎖難(かさなん)。多くの商人が重宝を持って険路を通り、3千大千国土に満つるほどの盗賊が襲い来ても、称名すれば即時に脱がれることができる。----怨賊難。
無尽意!菩薩の威力の巍々(ぎぎ:大きい)たることことはこうした風である。
第二に意業の上に、淫欲など欲に自ら悩まされているものも、菩薩の名を念ずればよくを離れることができる。----貧欲。
自ら憤り易うして悩むものも、不断に菩薩の名を念じているなら、憤うろしい心が消える。----瞋恚(しんい)。
ろかくに愚痴っぽくって自ら悩んでいるものも、常に菩薩を念じているなら、諦観ていかん:あきらめ)の心が得られてくる。----愚痴。
無尽意! 観世音菩薩ノンはかかる堂々たる威力があって、衆生を救ってくれるのだ。
第三に身業の上に、若し男児を儲けたく思う者が、この菩薩を礼拝供養して祈るなら、福徳円満な男児が生れる。----求男児。
女児を求めるなら、端正な美しい女児が生れて、衆人に愛敬(あいぎょう)されるであろう。----求女児。
無尽意! 観世音菩薩はかような威力有っているのだ。」と釈尊は観世音菩薩の名の因由と、七難・三毒・二求の願望を叶えてくれる徳を説き、限りない他の多くの菩薩に帰依(きえ)し、それを供養する功徳にも劣らぬ観音信仰の功徳を語り、更に無尽意菩薩の問いに答えて、菩薩が三十三身に身を変化し、衆生済度のために、種々に法を説くことを明された。畏怖に満ちた人の世に『無畏』を与えるこの菩薩を、娑婆世界では『施無畏者』とよぶことも告げられたのである。
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